scene 1     珈琲店とマスターと    
       
       
小さく食器の触れ合う音がして、マスターがカップを洗っている。
客足の途切れた冬の午前中の小休憩。
「あとは、」
袖口を二度ほど折り返した白い綿ブロードのシャツの腕が休み無く作業をこなしていく。

この時期、店で活躍するのは重さがしっくりと手に馴染む地厚の陶器。
飛び抜けて洗練されたデザインとは言い難いそれは
それでもこのマスターの淹れる珈琲の味をきちんと伝えるのにぴったりのもの。
この飲み口の陶器の厚さが、珈琲を口に含むという動作の中で充分に一役買ってくれる。
薄手のカップであるならば、その唇の形から酸味だけが強く伝わってしまうのだ。
一つ一つ手にとって選んだ、そんなカップをマスターはとても丁寧に扱う。
長持ちの秘訣だ。
商売道具だから、というだけではない。
プロ意識も確かに存在しているが、もともとそいういう人なのだ。
気に入らないものは持たない主義であり、数少ない気に入ったものを大切に扱う。
たとえば客から要望があったとしても、
世俗的で目に煩い週刊誌などは本棚には入れないし、新聞だって置いていない。
飴色がかった店の奥の本棚には、セピア色の写真集に、年代物のペイパーバック。
店先や小さな窓辺に緑の鉢植えは多いけれど、実はどれも花を付ける種類ではない。
いつか一人の客が戯れにカウンター越し、尋ねたことがあるけれど、
「さあ、どうしてでしょうねぇ」
マスターは静かな笑顔でそう答えたきりだった。
どんなに売れ行きが良かろうと、ケーキであれば1ホール分しか焼かないし、
珈琲も予定の豆が無くなったなら、店じまい。
かといって営業時間がひどく短いわけでもなくて
「この店で寛いでいただけるのでしたなら、いつまででも構いませんから」
と遅い時間であろうとも客を追い立てることなど決して無い。
閉店間近の時計の針に、入り口のボードを返しかけていたとしても
客の足音に、さりげなくそれを戻し、
「ええ、どうぞお入りになってください。まだ充分に時間はありますから」
とその客がほっとするような笑顔を見せてカウンターに戻ることも少なくはないのだ。
おそらくそれであるからこそ、
この店は全てのバランスが心地よく保たれているのかもしれない。

「いらっしゃいませ」
カウベルが来客を告げ、
穏やかな笑みをたたえたマスターが生成りのクロスで手をぬぐう。
「少し、冷えましたね。
 いつもの、でよろしかったでしょうか?」
ホーローのコーヒーポットを手にしながら尋ねるマスターに
北風の舞う冬の通りを歩いて来た馴染みの客は
ほっとするようにコートを脱ぐのだ。