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〜珈琲店の日常風景或いはマスターの独り言〜   
scene 16 立葵 

あの花が一番上まで咲いたなら夏が来るのだと、
教えてくれた祖母の声が
この季節にはいつでも鮮やかに蘇る。
通り沿いの垣根越しに立葵。
まだ気温の上がりきらないこの時間にも
その花は夏を恋うように色を見せて。

あの頃多分僕は
今よりもっと口数も少なくて
決して朗らかな子供ではなかったのだと思う。
それでもそれを咎めることなど無く
そんな僕の手を引いて
散歩と言っては祖母はよく
公園に連れ出してくれたものだ。
植物が好きだった彼女は
その道すがら、出会う花や木の名前を
歌うように呼びながら、折に触れて僕に教えてくれた。
公園の入り口には小さな花壇があって
そう言えば、誰かが忘れた野球帽が
そっと乗せられていたことがあった。
その帽子の青と黄色を
何故か今、妙にはっきりと思い出した。

記憶はこうして時折戯れのように訪れて
ぬくもりに似た何かを届けてくれる。
懐かしさと少しの寂寥感に
足を止めることもあったけれど
それなりに、僕なりに年を重ね、
彼方へと視線を投げて僕は笑う。
あの頃よりは随分と背も高くなり、
公園の滑り台も小さく見える。
角を曲がる。
どこか遠くで鳥の声。
ゆっくりではあるけれど、
毎日をひとつひとつ重ねて歩く。
僕はこのまま緩やかに
これからもここで季節を過ごして行くのだろう。

風が梢を揺らして通った。
この街に また、夏が来る。