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〜珈琲店の日常風景或いはマスターの独り言〜   
scene 18 珈琲店は秋の朝 

「すっかり季節変わりですねぇ」
乾いた風が、マスターの濃茶色の前髪を揺らして通る。
入り口の鉢植えに水をやっていた彼は
空を仰いでそう呟いた。
秋は好きな季節。
台風や、それから長雨は勿論得手ではないけれど。
こうして天気の良い日には
色付いた街路樹は鮮やかで、空は高く
遠くの音まで聞こえるような、そんな気になる。
「さて」
一頃よりも明らかに温度を下げた水で洗った手を
クロスで拭い
ギャルソンエプロンの紐を締め直す。
仕事用に使っているこの白のシャツも
もう少ししたならば、地厚のものに変える頃。
競うように鳴いていた蝉の声も、
駆け足で通り過ぎてしまったようだ。
カウンター内に並ぶキャニスターの蓋を開けて
まずは軽く目を閉じ、珈琲豆の香りを確認したなら
エスプレッソマシンのダイヤルの、少しばかりの調整を。
気温と湿度の動きは、珈琲の味と香りに
僅かではあっても確かな変化をもたらすのだ。
少し前にじっくり悩んで選んだ今年の秋のブレンドは
酸味を抑えた丸みのある、
やわらかな香りの一杯になっている。
そう、敢えて言うならば
穏やかな秋の日差しの注ぐ窓辺での
読書の隣に似合うようなそれ。
日常の中の一時にこの店を訪れてくれる人が
そうして寛いでくれるように、と。
エスプレッソマシンに抽出の指示をして暫し。
落ち着いた靴音を微かに響かせたマスターは
薄飴色の本棚に並ぶ背表紙を指の背でそっと辿った。
本棚はその人をあらわすと言われるものだけれど
きちんと高さが合わされて、
色味までもが互いに馴染みあっているかのような、
古いペイパーバックばかりが置かれたこの本棚は
穏やかなようでありながらも、何処かしら頑なでもあり、
確かにひどく彼らしいのかもしれない。
本を読むことが好きなマスターの寝室には
今も読みかけの本が主の帰りを待っている。
仕事に差し支えるなんて情けないことは
彼の矜持が許さないから
惜しむ心で昨夜はページを閉じたけれど
次々と展開されるロジックに、
実はかなり後ろ髪を引かれていたりもするのだ。
今夜は何処まで読み進めることが出来るだろうか・・・。
ふっと本の世界に漂った思考を
エスプレッソマシンに呼び戻されて
「はいはい」
小ぶりなカップを手にしたマスターは
まずは香りを確かめる。
そしてそれから勿論、その味も。
微かに緩められた眼差しは、満足のしるし。

こうして風色珈琲店の秋の一日は、今日も始まる。