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〜珈琲店の日常風景或いはマスターの独り言〜 |
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scene 5 |
珈琲店は営業中 |
「いらっしゃいませ」
やわらかにとおる店主の声。
「よろしければ、どうぞお好きな席におかけ下さい。」
笑顔の背から漂う香りはサイフォンからか、
それとも銀色のエスプレッソマシンからか。
入り口のドアの外では鉢植えのベンジャミンが
微かな風に優しく葉を揺らしている。
控えめな音楽と、手入れの行き届いたグリーンたち。
決して大きくはない店だけれど閉塞感など微塵も無く、
初めてドアを開ける客にも、
ここはひどく居心地がいいのだ。
メニューカードを差し出して、
カウンターの中、マスターはコーヒーポットに手を伸ばす。
不思議なことではあるけれど、
この店の多くは無いメニューのうちにも
その日その日に流行りがあって
どうやら今日は、酸味を抑えたやわらかなブレンドが
好まれる巡りらしい。
抽出は、ネルドリップを。
然程の時間のかかるものではないが、
手を離す隙のない作業だから
営業としては至適とは言えないかもしれないのだけれど
珈琲の微かな丸みを引き出してくれるこの方法を
彼は結構気に入っている。
中粗挽きにした豆をメジャースプーンで計り入れるすがら
香りの具合を確かめる。
珈琲を淹れる、という一連の過程は、
どこかしら、作業療法のようなものに似ていないこともない。
集中して丁寧に、豆の声を聞いて、空気を感じて
そして確かな一杯を。
それは、受け取る相手のものなのに、
その行程自体が、淹れている側の心を
知らず暖かなものにしてくれる。
珈琲を淹れるということは、おそらく
つまりはそういうことなのかもしれない。
ドリッパーを手にして、背筋を伸ばす。
流れ来る穏やかなテンポのピアノソナタが、
静かに彼の動きに寄り添う。
窓際のテーブルから、小さく陶器の触れる音。
ガラスの向こうを路線バスがすれ違う。
すらりとした指が、流れるように一つ一つの作業を
こなしていき
やがて暖かな湯気の立つカップが、
すっと薄飴色のカウンターに置かれる。
「お待たせいたしました。どうぞ」
暖かな光を投げていた太陽が、
そろそろゆっくりと山の陰を目指し始める午後。
カロン
また、誰かがドアを開けて。
「いらっしゃませ」
風色珈琲店では、今日も穏やかに時間が流れている。