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〜珈琲店の日常風景或いはマスターの独り言〜 |
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scene 7 |
春先の休憩時間には |
カロン
カウベルの音を立ててドアを開ければ
やわらかさを増した風が前髪を通る。
街はそろそろコートを薄物に替える頃
旧道沿いの店たちも、こころなしか明るく感じられ、
また一つ、季節が動いて、街路樹も枝先に
小さな新芽を覗かせ始めている。
ドアに『休憩中』のボードを掛けて、
マスターはそんな歩道をのんびり歩く。
穏やかな風と、暖かな日射し。
優しい空の色に自然と頬も緩む。
この道を少しばかり西へ進み、角を曲がった先の
和菓子店に向かうところ。
老夫婦の営むその小さな店に彼はよく足を運ぶのだ。
珈琲店の主であるマスターではあるが、
実は和菓子を結構好む。
そんな彼がこの季節、一番楽しみにしているのは
薄花色の道明寺。
餡から自家製のその店の和菓子は、
数年来のお気に入りになっているのだけれど
中でもこの道明寺は格別だと彼は思っていたりする。
だからこうして休憩時間に和菓子店に行くことは
この季節の彼の、いつもどおりのコース、なのだ。
マスターの風色珈琲店は、本当に“珈琲店”であり、
たまに気まぐれで追加される焼き菓子の他は
珈琲メニューだけしかない。
だから所謂ランチタイムの設定は無く、
お昼の時間帯は珈琲店の休憩時間になる。
大抵はカウンターで過ごしているが、
たまに公園に足を運んだり、
家の仕事を片付けに戻ったり、色々だけれど
桜の蕾が膨らみ始める少し前、
和菓子店に春の甘味が並ぶ頃には
必ずこうして通りを歩くのだ。
「こんにちは」
海老茶色の暖簾をくぐればショーケースの向こうから
小柄な老婦人の声。
「いらっしゃい。いつもありがとうね」
「あれ、まだありますか?」
「はい、ちゃんとありますよ」
道明寺を、ふたつ。
丁寧にくるまれたそれを
嬉しそうにマスターは受け取った。
店の名前が白抜きで描かれた小さな包みを
大事そうに抱え、俯いて小さく微笑む彼は、
常の穏やかな青年の顔に
束の間子供のような表情を乗せる。
店を出るその背中を見送る彼女の目は、とても優しい。
今日のランチのお供はお気に入りの道明寺。
丁度良い豆を探すのに苦労した専用のブレンドを淹れて
一時を楽しむとしよう。
空は晴れて風は心地良く、マスターは幸せだ。